髪の色や目の色が違う相手だと
「文化の違い面白い!」「そういう考え方もあるのか!」
と、ポジティブに受け入れられるのに、
見た目が似ている日本人どうしだと途端に
「普通こうでしょ!」「常識知らず!」
などと突っぱねてしまうのは、とても不思議なことだと思うのです。
初めて海外に長期滞在した、アメリカ・ボストン留学で最も感じたこと、それは
当たり前ってなんだろう、ということ。
あらゆる国・地域から、あらゆる年代の人々が集まる語学学校では、日常生活を送るだけで、驚くことも多かったです。
初めましてでいきなりキスはされるし、約束時間より早く到着したら迷惑だと怒られるし、平日の夜中に突然パーティーが始まってパジャマで踊り出すし(翌朝しっかり授業は受けているから流石でしたが)、晩御飯が一回しかないことにルームメイトがキレだすし…
いちいち「普通こうやろ!」「意味わからんわ!」なんて言ってたら息が持たないことに早々に気が付きました。
そこから、気持ちが楽になったのをよく覚えています。自分のなかで、認める・認めない、をハッキリ線引きして、いちいち目くじらを立てていたわけですから、それまでは、相当エネルギーを使っていたんですね。
自分の常識が縛っていたのは、自分自身でした。
一旦すべてを受け止めて、違うということを味わう。そのあとで、嫌なことは嫌と言えばいいのですから。
これって、海外にいるときに限ったことじゃないんです。
アメリカでの経験のあとは、なるべく「普通は」などという言い方は避けています。外国語大学での学生時代に、グローバルなバックグラウンドを持った日本人に多く出逢ってきたことも、大きかったかな。日本にいるとどうしても、
一人ひとりに違いがあることを認識しずらい
のは確かです。海外だと、使う言葉も違うし、肌や目の色など見える部分が違うことが多い。自然と、心の中で「私の普通と相手の普通は違うんだろう」と構えられるのですが、同じ日本人どうしだと急に「共通認識を持っているだろう」という意識が強くなってくるのです。
似ていても、誰一人同じではない。
私にも私の普通があるように、相手にも相手の普通があるはずです。
それぞれの場所でそれぞれに人生を歩んできて、そのなかで一人ひとりの中に各々の文化が育っています。同じ国や地域で育ってきたら、その文化たちは互いに似ているかもしれません。それでも丸っきり同じなんてことはないはずです。兄弟であっても違うもの。
だからある意味、
誰かと関わるとき、それはもうすでに異文化交流なのです。
それに、「普通はさぁ、」と言ってしまうと、自分ではない誰かの意見を伝えているようで、私は居心地が悪いと感じてしまうのです。
「私はこう思う、感じる」
と伝えた方が、「自分の心で考えましたよ」と相手に伝えられるような気がして、なんとなく好きなのです。
もちろん、「私にとってはこれが普通だもん」とわがまま三昧振る舞うのとは違いますよ。海外でも日本でも、敬意を示す方法として、私なりの考えの一つです。
HANAE